2013年6月26日水曜日

男は国境を越える

マラウイ共和国の首都、リロングウェ。

朝、目がさめて、一瞬、ひどく非現実的な気分になった。

「ここはどこだっけ。」

旅に出てからもう二ヶ月がたつというのに、毎朝毎朝違った天井を見つめて、あい変わらず同じことを考える。一晩250円のベッドを抜け出すと、一気に身体が重くなった気がする。身体がだるい。機嫌も悪い。どうして僕は今機嫌が悪いのだろうか、と、不機嫌な頭であれこれ考えながら外へ出る。もう10時を過ぎた日差しが、うんざりするほど眩しい。暑い。

「あー、思い出した。昨日は遅くまでアイツと・・・。」

体調がすぐれない理由を思い出すと、ますます気分が沈んできた。昨日の夜、僕は「アイツ」と安ワインを飲んで煙草をバカバカふかしながら、例のごとく世にも不毛な下らぬ議論に延々と管を巻いていたのだ。

昨晩の議題はこうだ。
「自分の結婚式にはどのレベルの親しさの友人までを呼ぶか。ならびに、それぞれの場合における良い所と悪い所について。」

アイツ、というのは井口明という男のことで、僕が五ヶ月間にわたる旅の大半を共に過ごした人間だ。ケニアの古着市で購入した汚らしいツナギを好んで着用し、「これ一回も洗濯してないんだぜ」と、まるでそれが自分の努力の結果であるかのように、あろうことか嬉々として自慢してくる怪人だ。僕がワールド・スタンダードであるマルボロの上品な風味を好んで吸うのに対して、この男には味へのこだわりというものが無いのだろうか、徹底して一番安い銘柄を選び、「まずいまずい」と言いながら日に二箱を消費する。かと思えばマヨネーズを毛嫌いする偏食家で、ありとあらゆる体育会系アクティビティを避けて生きてきたインドア派で、彼女もいないのだ。

僕らが交わした議論のジャンルは実に多岐に渡り、深い内容のものから取るに足らぬ薄っぺらなものまで様々だった。が、原則としては、「現状への不平不満。それが誰のせいであるか。仮にあるならば、自分自身に求められる原因は何か。そして、その点で少なくとも自分が相手よりはマシであるという主張。」といったものであった。



とりあえずは、全身にまとわりついた不愉快な倦怠感をさっぱりと洗い流す必要がある。シャワーを浴びて、軽くストレッチをしてから、食堂に入り、チャイを注文した。大きなマグカップに注がれたチャイには香辛料がたっぷりと効いていて、半分も飲み干すと気分もだいぶすっきりしてきた。

するとそこへ、「おっくう」の限りを全身で引きずりながら奴がやってきた。奴は僕の隣に腰を下ろすと、「おはよう」という意味の低いうなり声を投げやりに短く上げ、いかにも大儀そうに煙草に火をつけると、しまりのない口から煙を吐き出した。それを眺めていると、僕はまた身体がだるくなってくる気がした。



夕方、僕らは国境を越える車に乗った。一人で座る分には少し余裕のある、広めの助手席に二人で座らされた。窓側に座った僕は、身体の左側を車のドアに、右側を井口明にぴったりと密着した状態で挟まれた。後部座席に座っている現地の人たちも、だいたいそんな風にして身体を寄せ合い窮屈そうにしている。

日本にいた頃は、隣に座る知らない人と膝が触れ合うだけで何となく気になってしまうものだったが、今ではすっかり満員乗車にも慣れた。シートが固くて尻が痛かろうが、となりに座った人の体臭が多少きつかろうが、クーラーが壊れていて多少暑すぎようが、「そういうもんだ」という意識が自分の中に定着していた。

旅を続けていくうちに、それまで自分の中でNGだったことがどんどんOKに変わっていく。あらゆることに対して無意識のうちに引いていたボーダーラインが、どんどん下がってゆく。それは大抵、思っていたよりも心地良いことで、時にはそんな自分を少し誇らしく思ったりもする。こういうのは、旅人特有のナルシズムであると同時に、人間の本来的な悦びでもある、と、思う。それが少しぐらいキツかったり、辛かったりしても、だ。



出発前、車は、ずいぶん長い間停車した。

僕らの間に昨晩のような議論が巻き起こるのは、大抵二人ともが酒に酔っているときだ。しらふの時に議論の「テーマ」を思いつくこともたまにあるのだが、すぐ口には出さずに、その日の晩にとっておく。要するに、「こんな下らないことを、しらふでお前なんかと語り合って一体どうするのだ?」という訳だ。だから、窮屈に詰め込まれた車の中で発車を待っているあいだも、車が走り出してからのガタガタという振動に揺られているあいだも、特に僕らのあいだに会話が盛り上がることはなかった。まあ、それでいい。いつもそんな感じだ。

しかし、それにしても今日は少し大人しい。その訳は、車にあった。

アフリカの車というものは、ときどき謎めいた壊れ方をしている。この日の場合は、僕の隣に座っている彼の場所にだけ、背もたれが無かった。一応、一人分の座席に二人で座っていたのだが、僕の背もたれはあって、彼の背もたれは壊れていた。そういう壊れ方をしていることが、たまにある。アフリカの車においては、全ての乗客におしなべて均等に背もたれが用意されているとは限らないのだ。

彼は「俺んとこ背もたれねえじゃねえかよー。」と、あくまでさりげなく、ぶつぶつと小言を漏らしながら、何時間も悪路に揺られた。これが思っていた以上の悪路で、彼は、その予想以上の悪路に、背もたれの無い座席で、何時間も、何時間も、揺られた。

『こういうのは、旅人特有のナルシズムであると同時に、人間の本来的な悦びでもあると、思う。』
『それが少しぐらいキツかったり、辛かったりしても、だ。』

僕は、彼が「席を変わってくれ」などと言い出す前に、寝たふりをした。



旅人のプライド。
粋な優しさ。

対岸の火事。
男の意地。

硬派な暗黙。
軟派な了解。

寝る僕。
寝れない彼。



その夜遅く、ちっぽけな男が二人、でっかいザンビア共和国への国境を越えた。



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